ブックタイトル季刊理想 Vol.120

ページ
3/24

このページは 季刊理想 Vol.120 の電子ブックに掲載されている3ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

季刊理想 Vol.120

2 ◆ 季刊理想 2016 夏号心に何かモヤモヤしたことがあるとき、人に話すとすっきりしたという経験は、誰にでもあることと思います。相談して、相手から何かの答えを教えてもらって、それで悩みが解決したということはあるかもしれません。でも、教えられてするべきことが見つかったというのでもなく、また、なにも新しい解決法がわかったわけでもないのに、モヤモヤが消えて気が済んでしまう、気分がすっきりしてしまうことがあります。なぜなのでしょうか。心の中を言葉に変換する、ということが、心の霧を晴らすのに効き目があったのだと考えられます。心の中は、本来混沌としています。うまく言葉を使えない子供の時のことを思いだしてみてください。境目のわからない、形にならないものが、心の中で動き、変化していましたが、私たちは、それをうまく伝えられませんでした。しかし、言葉をたくさん覚えることで、私たちは、怒りや悲しみ、喜びや楽しみを、精密に認識でき、混沌の中から区分して、拾い出すことができるようになりました。聖書に「はじめに言葉があった」と書かれているのは、つまり、言葉がなければ、私たちが知覚したり、感じ、考えたりしたことを、わかるように認識できないのだということです。誰かに話すことで、心の中がすっきりとするのは、言葉で整理するからです。では、心の中を、話すこと、音声言語に変換するのと、書くこと、文字言語に変換するのではどう違うでしょうか。話して人に聞いてもらうことで、自分の考えを他人と共有してもらったような気がします。友だちに話すことで、苦しいことは半分になり、嬉しいことは倍加すると言います。自分の意識の中が整理されると同時に、人とつながる喜びを直接感じることができます。書くことではどうなるでしょうか。書くことは、話すことと比べて、他人とつながることを直接感じられない作業であるかもしれませんが、もちろん、誰かに読んでもらって強いつながりを作ることができます。しかも、文字言語には、音声言語にはない長所があります。言葉の外在化です。自分の話したことを聞くことはあまりありません。自分の声を初めて録音で聞いたとき、強い違和感がありました。自分の声は、なかなか外から聞けません。話したときの言葉は、外にあるものとして、自分から離して検討することができません。ところが文字言語はそれができるのです。文字で自分の考えを書いたとき、その言葉が、本当に自分の感じていることを表しているのか、自分で読みながら仔細に調べることができます。そうして簡単に書き直すことができます。話したことは言い直すことができても、さっき話してしまった言葉は、相手の記憶から消すことができません。書かれた言葉は、話した言葉よりも、心の中を正確に表現できます。己自身を知ることが、知性の最終目標であるとすると、書くことは、私たちがするべき至高の行為であるのかもしれません。言葉に換えて書くこと 杏林大学教授 金田一 秀穂●金田一秀穂(きんだいちひでほ)東京都生まれ。上智大学卒業後東京外国語大学大学院修了。中国大連外語学院、コロンビア大学で日本語を教え、ハーバード大学客員研究員をへて、現在は杏林大学外国語学部教授。日本語学の権威である祖父・金田一京助氏、父・春彦氏に続く、日本語研究の第一人者。著書『日本語大好き キンダイチ先生、言葉の達人に会いに行く』(文芸春秋)『手紙に使える 会話に役立つ 美しい日本語が身につく本』(監修・高橋書店)『金田一秀穂の心地よい日本語』(Kadokawa)ほか多数。