ブックタイトル季刊理想 Vol.119
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季刊理想 Vol.119
論語の受け止めとその交流 近年の各種調査によって、中学校・高等学校の生徒による古典学習に対する興味・関心、また古典学習の意義に関する意識が低調であることが明らかになってきている。平成25年度の全国学力・学習状況調査における「古典は好きですか」という質問に対し、肯定的な回答をした生徒が29.3%にとどまったという報告がその一例である(中学校調査・生徒質問紙・回答結果集計)。こうした事実をふまえ、現在文部科学省で進行している教育課程の改訂に関わる議論では、教科としての国語の課題の一つとして、古典を学習する楽しさや意義を感じさせる指導が挙げられている。 中学校における漢文の学習指導に関しては、教科書の教材選択の範囲と指導内容においてここ数年大きな変化はない。教材としては故事成語、漢詩、そして論語が取り上げられ、論語に限るならば、その指導内容は多くの場合、(1)漢文訓読体の音読、(2)語句や意味の理解、(3)論語の言葉を現代の生活にあてはめてとらえ返してみること、などが求められている。これらはいずれも国語教育で重視されてきたものであるが、現在の課題に即してとくに注目されるのが(3)である。それは古典を学習する意義の喚起を目指すものとして理解できるばかりではなく、「古典は後になって現れる読者によってつくられる」と述べる外山滋比古氏の古典論にしたがうならば、論語を古典として後生に伝える営みへの中学生の参加として受け止めることができるからである(『外山滋比古著作集3異本と古典』みすず書房、2003 年)。 外山氏は後の人々が新しい意味を読み取ることができなくなった作品は姿を消していく、と主張する。この論理に従うならば、読者としての中学生たちのさまざまな受け止めとその交流が、論語を今日に生きる古典として再生させるとともに未来につないでいくという生産的な活動になるのである。したがって、学級における論語の受け止めの交流はそのための貴重な機会となる可能性があるはずであり、ここに古典を学習する意義の一つを認めたいところである。それにもかかわらず現状において中学生がこうした学習に意義を見出すことが困難であるとするならば、それは一つには生活や読み取りの観点の均質化にも原因を求めることができるかもしれない。たとえば「君子和而不同。小人同而不和。」を身近な生活にあてはめてとらえ返すことを中学生に求めた場合、何らかの行事に参加し実行する際の友人間の軋轢とその克服、という物語型ともいうべき様式にあてはめて語られる例が多い。もちろんそのようなあてはめ方もまた、古典化への参加の典型的な例として認めることができる。しかし、作品の趣旨や選択された場面に学級内で大きな差が見出せない例が続くならば、関心の維持は困難だろう。中国や台湾などでの論語の学習 しかしここで国外に目を転じてみるならば、論語は日本のみならず、中国、台湾、香港、韓国などにおいても中学校の教材として教科書に掲載されているのである。とくに「学而時習之。不亦説乎。有朋自遠方來。不亦楽乎。人不知而不慍。不亦君子乎。」、「温故而知新。可以為師矣。」、「学筑波大学人間系教授 甲斐 雄一郎先生国語科教育の現状と課題~古典学習に関する二つの視点から~季刊理想 2016 春号 ◆ 9